1869年 |
日本外務省高官たちが編纂した<朝鮮国交際始末内探書>、 |
1870年4月 |
「日本外交文書」第3巻に「朝鮮国交際始末内探書」というのがあるが、これは朝鮮国に対する内探指令に関する復命書で、4月に提出された。提出者は「外務省出仕」の佐田白茅、森山茂、斉藤栄の3人である。 |
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当時、朝鮮の政治、外交、軍事、貿易などを調査していて相当なものだが、最後に鬱陵島と独島に触れて「竹島、松島、朝鮮付属二相成候始末」と題している。ここでいう「竹島」は鬱陵島のことで、松島は今の独島のことである。
明治政府の正式の調査員が種々調べたうえで、独島は朝鮮付属の島と判定したのである。 |
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佐田は、明治征韓論の先唱者の一人で、朝鮮侵略の機を窺っていた人物、彼が「竹島」は朝鮮領と復命した事実は重い。そして明治政府も佐田の調査報告に疑問を持った兆候はない。 |
1875年 |
日本の明治絶対主義政府は測量名目で江華島沿岸に雲揚号を出し、朝鮮に江華島条約を押しつけ、植民地支配の足掛かりをつくった。 |
1876年 |
日本内務省で作った<太政宮>決定書、 |
1876年 |
日本海軍省が作成した<朝鮮東海岸図>、 |
1905年 |
東京博物館で発行した<日本戦争実記>、 日本陸軍参謀本部から出た<指導区域一覧図> |
1936年 |
などの資料などで独島が韓国の領土であることを明らかにした。 |
1877年 |
当時の最高国家機関である太政官が「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」(注:「竹島」は欝陵島を、「外一島」は独島を指す)とする指令を発した。両島は版図外、すなわち日本領ではないとする公式宣言である。 |
1894年 |
明治政府が国家事業として製作した地図が『大日本管轄分地図』として発刊されたが、そこに両島は記載されなかった。日本海軍は、『朝鮮水路誌』94年版・99年版に両島を記載した。これは独島が朝鮮領であると認識していたことを示している。 |
1897年 ごろ |
独島の島根県編入に至るきっかけは、日本漁民が偶然、独島でアシカを大猟捕獲して大儲けしたことからである。そこで、隠岐の漁師中井養三郎らは利益の独占権を狙い、当時「リヤンコ島」と呼ばれていた独島の「貸下」請願をすることにした。この時の最大の問題点は、中井は「リヤンコ島」は朝鮮領と信じこんでいたということである。 |
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1904年7月「養三郎はリヤンコ島をもって朝鮮の領土と信じ、同国政府(つまり朝鮮政府=著者注)に貸下請願の決心を起こし」(「隠岐島誌」1933年2月刊)て中央官庁たる農商務省、内務省、外務省に働きかけた。ところが、どこの省庁も「リヤンコ島」など知る者がなく、迷惑がって誰もまともに中井を相手にしなかった。この中井に注目したのが海軍省である。海軍省水路部長・肝付兼行が中井を呼んでじっくりと話を聞いた。そして、この島はどこの国も領有宣言をしていない。君らがこの島で漁業に従事しているのは、国際法上、領有の事実であるものと認められる根拠になるといい、この島は日本領土に編入しようということになった。中井は9月29日、前記三省の大臣あてにあらためて「リヤンコ島領土編入並ニ貸下願」を提出する。つまり、日本海軍省の強力な後押しを得て、独島は日本の軍事・戦略的な必要から日本領に取りこまれていったのである。そして翌1905年1月28日、日本政府は独島の日本領編入を閣議決定し、2月22日には島根県告示第40号で独島に「竹島」なる名を付けて島根県所管を公示する。 以上が独島の島根県編入経緯の概略である。 |
1900年 |
大韓帝国の勅令で鬱陵島を韓国領と宣言し、属島の「石島」(独島)を管轄するとした。この時点で独島の韓国領有は国際的にも確定していたのだ。 |
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1900年、大韓帝国は勅令41号で鬱陵島周辺の「石島」(独島)が同国の統治下にあるとした。 これに対し明治政府は異見を出さなかった。 |
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他方、こうした歴史的・国際法的関係を逆転させ、日帝が独島を略奪し、朝鮮植民地支配の転機となったものこそ、1905年の閣議決定だったのだ。 |
1905年 |
歴史上初の帝国主義戦争だった日露戦争のただ中で独島を「日本領土」と閣議決定して島根県に編入した。独島を歴史的に略奪したのだ。 |
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日帝は日露開戦と同時に、韓国に「日韓議定書」を強要し、事実上の「属国」とした。 |
1904年 |
8月「第1次日韓協約」、 |
1905年 |
11月「第2次日韓協約」(乙巳保護条約)、 |
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日本政府は口を開けば「竹島」は歴史的にも国際法上も日本領であると主張しているが、1905年の「竹島」の島根県編入の時にも「当時他国に異論はなかった」とか、「韓国側は異議を差し狭なかった」ので国際法上、有効だと主張している。このことについては2つの側面@国際法上からA当時の両国の史的側面からきっちりと反論できる。 まず、国際法上の観点からは、領域編入が国際法上で有効なものと認定されるには「領域取得において、先占の要件を具備しているか、にある」。先占の要件とは、@その地域が「無主の地域」でありA「領域取得の国家意思」と「その意思を対外的に公表」すべき問題B「その地域の実効的な占有」の問題があるが、日本政府はこの要件を具備していない。
B
1905年とは、いかなる時期か 「竹島」編入に当時の朝鮮政府は異議を唱えなかったという日本政府や政府寄りの研究者は、一人として当時の両国関係を詳しく析出しようとしない。
山ほどの古文献を引張り出して、独島が古来から日本の領土なるを博引旁証している人たちなのになぜなのか。それは、当時の両国関係を歴史的に直視すれば、日本の朝鮮侵略過程のなかでの独島領有であるからである。はっきり記憶して欲しい。「竹島」領有の閣議決定は1905年1月28日であり、島根県告示とやらは同年2月22日である。この時期はいかなる時期か。
1年前の1904年2月10日に日本の対ロ宣戦布告があり、その2日前の2月8日、日本は大軍を仁川に上陸させている。この日本軍の圧倒的軍事圧力のもとで2月23日には「韓日議定書」が結ばれる。「議定書」は6ヵ条からなっているが、その第1条は、韓国政府は日本政府の「忠告を容れる事」とあり、第4条は、日本は「軍略上必要の地点を臨機収用する」とあり、日本はいつでも朝鮮の土地を奪えるようになっていた。そして第5条では、韓国(当時大韓帝国)は日本の承認なしに第三国と条約を結べないようにした。
この第1条の「忠告を容れ」る件と、第5条で第三国との条約を制限したことは、実質上保護国化で、翌年11月の乙巳保護条約の「締結」を待たずして、その内実は達せられたと言える。紙数の関係上、詳説は避けるが、朝鮮は実質上保護国化され、加えて1904年8月22日、いわゆる「韓日新条約」(第1次韓日協約)を強制締結させられ、外交顧問として親日米人スティーブンスを傭聘させられることになる。この時期、大韓帝国の外交権は日本に完全に握られていたのである。こういう歴史的事実を認識したうえで、日本政府と日本政府寄り研究者は、「竹島」領有告示に異議を唱えなかったから国際法上、有効だったと言い張るつもりなのか。 |
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また、国際法上の「先占の要件」の関連ではいま一つ紹介したいことがある。
「竹島」領有告示後の1906年3月、島根県の第3部長・神西由太郎は、隠岐島司・東文輔らを従えて独島視察を行うが、ついでに鬱陵島に寄り、「鬱陵衛門」の扁額のある政庁に入って、郡守・沈興沢と面会し、独島の島根県編入を告げた。沈郡守は「簡単、素朴、頗る太古の風あり」と評されている。この鬱陵島郡守・沈興沢が1906年に旧暦の3月5日付で政府に報告書を提出する。
「本郡所属、独島」と始まって、独島が日本領土にされたという内容である。日本政府とその追随者は国際法上の「先占の要件」を満たしていると強弁するが、さきにものべたように「先占の要件」の@はその地域が「無主の地域」ということである。
しかるに日本領有の事実を初めて聞いた鬱陵島郡守は「本郡所属」という明確な認識を持っていたのである。この沈郡守の一片の報告書だけで、日本側のいう「先占の要件」の3つの条件をすべて否定する力を持っているといえる。彼は報告の最後に「照亮されることを務望(実情を明らかにされることを望む)」としたが、大韓帝国の外交はすでに保護条約により韓国統監府が置かれ、伊藤博文が韓国統監となっていた。伊藤統監が、日本の「竹島」領有に異議を申し立てるであろうか。 |
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1905年、明治政府は日露戦争のさなかに軍事施設建設を目的として、そして同時に韓国に対する植民地化政策の激化の只中で独島を強奪したのである。「米国はフィリピン、英国はインド、日本は朝鮮」を手に入れるとした日米英間の帝国主義的合意を背景に、
1904年2月、日本軍は日露戦争突入とともに仁川に上陸し首都漢城を制圧した。同月には日韓議定書調印を強要、5月には対韓施設綱領の閣議決定、9月には第一次日韓協約を結んだ。ロシア海軍が日本の輸送船を沈める状況の下、11月にはロシアにおいて「リアンクール島」と呼ばれていた独島にロシア海軍監視用望楼の建設が可能であると予備調査で確認。
1905年1月、明治政府が「リアンクール島」を「無主地」と決め付けてその領土編入を閣議決定し、「竹島」と命名した。その際、関係国であるはずの朝鮮との協議も、官報による公示もなかった。政府の訓令を受けた島根県が県告示40号で同島を「竹島」と命名し、隠岐島司の所管にすると公示した。 同年7月、同島に望楼が着工され8月から活動が始まった。つまり、日露戦争に勝つための軍事施設の建設を目的として独島の領土編入が秘密裏に強行されたのである。 |
1906年3月 |
「竹島」領有告示後、島根県の第3部長・神西由太郎は、隠岐島司・東文輔らを従えて独島視察を行うが、ついでに鬱陵島に寄り、「鬱陵衛門」の扁額のある政庁に入って、郡守・沈興沢と面会し、独島の島根県編入を告げた。沈郡守は「簡単、素朴、頗る太古の風あり」と評されている。この鬱陵島郡守・沈興沢が1906年に旧暦の3月5日付で政府に報告書を提出する。 「本郡所属、独島」と始まって、独島が日本領土にされたという内容である。日本政府とその追随者は国際法上の「先占の要件」を満たしていると強弁するが、さきにものべたように「先占の要件」の@はその地域が「無主の地域」ということである。 しかるに日本領有の事実を初めて聞いた鬱陵島郡守は「本郡所属」という明確な認識を持っていたのである。この沈郡守の一片の報告書だけで、日本側のいう「先占の要件」の3つの条件をすべて否定する力を持っているといえる。彼は報告の最後に「照亮されることを務望(実情を明らかにされることを望む)」としたが、大韓帝国の外交はすでに保護条約により韓国統監府が置かれ、伊藤博文が韓国統監となっていた。伊藤統監が、日本の「竹島」領有に異議を申し立てるであろうか。 |
1907年 |
7月「第3次日韓協約」と、韓国の内政も外交もすべて奪っていき、 |
1910年 |
韓国併合で植民地化を完成した。まさに1905年の独島略奪こそ日帝の朝鮮植民地支配の起点であり、朝鮮人民にとって「屈辱の象徴」なのである。 |
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1946年 |
戦後においても以上のような歴史事実を受けて、連合国軍総司令部(GHQ)は、の二つの「覚書」で、「竹島」への日本の行政権を停止し、日本漁船の操業区域から「竹島」を除外している。 このように独島=朝鮮領はあらゆる意味で明白だ。 |
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そして同年4月28日、対日講和条約たるサンフランシスコ条約が発効するが、この条約の「第2章 領域」の項の第2条(a)は「日本国は、朝鮮の独島を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」となっていた。ここには独島の名は入っていない。 |