日  誌
辺野古 阻止行動カンパ
カンパ報告の頁へ 
 上記、カンパはすでに「命を守る会」に手渡し致しました。
今後、順次、カンパをいただいた団体名、また個人についてはイニシャルで報告していこうと思っています。
ありがとうございました。m(__)m

辺野古と共に!国会前座り込み
 国会座り込みの様子を毎日更新!!

プロテスト
バンド
 
ヨッシー&ジュゴンの家
2006年5月I
5月Hへ 5月Jへ

スケジュール
5/26(金)   館野 公一 ライブ  午後7時スタート
       チャージ 1.000円
5/27(土)  ディパックさんのカレー 午後6時半〜500円
6/1(木) まよなかしんや レコーディング・ライブの為、チャージなし 
  午後7時スタート
       
6/4(日) まよなかしんや レコーディング・ライブの為、チャージなし  午後6時スタート 


「ヨッシーとジュゴンの家」の新CD 5/10 発売!  1000円

5月24日(水)
ミナちゃん、久々に登場
ビールの差入れ
昼食は皿ウドン 手作りワンタン バナナ・ヨーグルト
すごい豪雨です 夕食はさばの味噌煮 三里塚のスナックエンドー、トマト・豆腐
← 三里塚の小松菜の炒め

ホームページ開設 since 06.5.15
9条を変えるな!
 ↓ クリックすると視聴できます
@ 「ヨッシーとジュゴンの家」&まよなか★しんや 版
A えびのから 女性 版
B キクちゃん 版
今日は、31筆、集まりました
「街」の前に立て看板と署名用紙を常設
若者が署名を集めると・・・
「小泉も安部も信用できないが、この国は自分たちで守らなければならない」と語った70代男性の方が、自分の考えを
書いた50ページほどの文章を持ってきました。「愛国心とは」「靖国問題」「竹島問題」「少子化」などの項目があったが、ハネやんが独島(トクト)=「竹島」問題に関する年表を作りました。
独島は朝鮮東海のほぼ中央部にあって、2つの主島と個数の岩礁からなっている総面積約7万坪の小島で、
総面積はほぼ日比谷公園ほどの広さである。

朝鮮の鬱陵島からは49海里(1海里=1.852キロメートル)、日本の隠岐島からは86海里の所にある。つまり比較にならないほど朝鮮側に近い。

独島領有権の歴史的経緯の問題であるが、領有権問題として提起されるのは17世紀以降である。あまりにも煩雑にすぎるので、近代以降、それもポイントになるべき点を要約して私見をのべたい。独島問題の歴史的経緯 クム ビョン ドン

↓参考資料:朝鮮・社会科学院歴史研究所 備忘録で論述 独島は朝鮮固有の領土
512年

独島の来歴は早くから記録に挙っていた鬱陵島と関連付けて考えないといけない。本土の流民たちによって立てられたと推定される鬱陵島の于山国が新羅に帰属されたことは6世紀初(512)の後だった。この事実は三国史記新羅本紀 智證王13(512)年に "6月に于山国が新羅に属した"という記録から見ることができる。
  以後、鬱陵島という名称が定着される事によってその部属島嶼である独島へと于山という名称から移動するようになった。1531年(中宗26)に編纂された 

独島は512年鬱陵島と一緒に新羅に帰服され、高麗では行政区域に編入させて民を移して住ませるなど鬱陵島と独島の経営に積極的な興味を示した。 .
1432年 朝鮮1432年(世宗14)に編纂された地理誌 江源道蔚珍玄祖にも西島"于山、武陵の二つの島が(蔚珍)県正東海の真中の島である"として東海上に武陵と于山の二つの島があるというのをより確かにした。
1531年 1531年(中宗26)に編纂された
1694年 <新増東国輿地勝覧>江源道蔚珍玄祖に"于山島、鬱陵島が県の正東海の真中にある"として<世宗実録> 地理誌の記録を引き継いでいる。 1694年 三尺将軍 張漢相が鬱陵島の300余里辺りに鬱陵島の3分の1の大きさの島を見付けた記録を記した<張漢相鬱陵島史蹟期>を発行した。これは韓国文献に出る鬱陵と于山(独島)の地名はすべて鬱陵島を示す言葉という日本の主張に対して、鬱陵島とその近所にあった独島を我々が17世紀に至ってはもう分かっていたという事実を生々しく立証するのだ。18世紀に出た鄭?驥の<東国地図>に至っては鬱陵島と于山島の位置と大きさが正確に表示されたし、朝鮮後期の地図帳には通例鬱陵島の横に于山島または子山島を表記している。日本自らも独島を韓国地だと認めた資料が列をなす。
江戸時代と明治時代二度にわたり「竹島」の領有を否定している。
1696年 @徳川幕府はに鬱陵島への渡海を禁じた。これによって「竹島」に行く者も途絶えた。
1876年 A明治になって、鬱陵島に渡った日本人から島の開発申請が出されたことに対し、明治政府は鬱陵島ほか1島(「竹島」)は「本邦とは関係ない」という太政官決定を下した。日本は領有を一度も主張してはいない。
江戸幕府は、独島のことを「松島」と呼び、「竹島」と呼ばれていた欝陵島とともに、日本人の渡航・居住が禁止された朝鮮領と認識していた。幕府の官撰地図に「松島」(独島)は記載されなかった。
明治政府自体が独島を朝鮮領としていた事実
明治政府も1905年の編入までは独島を朝鮮領と認識していた。1869年に調査のため朝鮮に派遣された外務省高官は、翌年提出した報告書『朝鮮国交際始末内探書』で、「竹島」(欝陵島)と「松島」(独島)は朝鮮付属になったとした。
1869年 日本外務省高官たちが編纂した<朝鮮国交際始末内探書>、
1870年4月 「日本外交文書」第3巻に「朝鮮国交際始末内探書」というのがあるが、これは朝鮮国に対する内探指令に関する復命書で、4月に提出された。提出者は「外務省出仕」の佐田白茅、森山茂、斉藤栄の3人である。

当時、朝鮮の政治、外交、軍事、貿易などを調査していて相当なものだが、最後に鬱陵島と独島に触れて「竹島、松島、朝鮮付属二相成候始末」と題している。ここでいう「竹島」は鬱陵島のことで、松島は今の独島のことである。   明治政府の正式の調査員が種々調べたうえで、独島は朝鮮付属の島と判定したのである。

佐田は、明治征韓論の先唱者の一人で、朝鮮侵略の機を窺っていた人物、彼が「竹島」は朝鮮領と復命した事実は重い。そして明治政府も佐田の調査報告に疑問を持った兆候はない。
1875年 日本の明治絶対主義政府は測量名目で江華島沿岸に雲揚号を出し、朝鮮に江華島条約を押しつけ、植民地支配の足掛かりをつくった。
1876年 日本内務省で作った<太政宮>決定書、
1876年 日本海軍省が作成した<朝鮮東海岸図>、
1905年 東京博物館で発行した<日本戦争実記>、
日本陸軍参謀本部から出た<指導区域一覧図>
1936年 などの資料などで独島が韓国の領土であることを明らかにした
1877年 当時の最高国家機関である太政官が「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」(注:「竹島」は欝陵島を、「外一島」は独島を指す)とする指令を発した。両島は版図外、すなわち日本領ではないとする公式宣言である。
1894年 明治政府が国家事業として製作した地図が『大日本管轄分地図』として発刊されたが、そこに両島は記載されなかった。日本海軍は、『朝鮮水路誌』94年版・99年版に両島を記載した。これは独島が朝鮮領であると認識していたことを示している。
1897年
ごろ

 独島の島根県編入に至るきっかけは、日本漁民が偶然、独島でアシカを大猟捕獲して大儲けしたことからである。そこで、隠岐の漁師中井養三郎らは利益の独占権を狙い、当時「リヤンコ島」と呼ばれていた独島の「貸下」請願をすることにした。この時の最大の問題点は、中井は「リヤンコ島」は朝鮮領と信じこんでいたということである。

1904年7月「養三郎はリヤンコ島をもって朝鮮の領土と信じ、同国政府(つまり朝鮮政府=著者注)に貸下請願の決心を起こし」(「隠岐島誌」1933年2月刊)て中央官庁たる農商務省、内務省、外務省に働きかけた。ところが、どこの省庁も「リヤンコ島」など知る者がなく、迷惑がって誰もまともに中井を相手にしなかった。この中井に注目したのが海軍省である。海軍省水路部長・肝付兼行が中井を呼んでじっくりと話を聞いた。そして、この島はどこの国も領有宣言をしていない。君らがこの島で漁業に従事しているのは、国際法上、領有の事実であるものと認められる根拠になるといい、この島は日本領土に編入しようということになった。中井は9月29日、前記三省の大臣あてにあらためて「リヤンコ島領土編入並ニ貸下願」を提出する。つまり、日本海軍省の強力な後押しを得て、独島は日本の軍事・戦略的な必要から日本領に取りこまれていったのである。そして翌1905年1月28日、日本政府は独島の日本領編入を閣議決定し、2月22日には島根県告示第40号で独島に「竹島」なる名を付けて島根県所管を公示する。
 以上が独島の島根県編入経緯の概略である。

1900年 大韓帝国の勅令で鬱陵島を韓国領と宣言し、属島の「石島」(独島)を管轄するとした。この時点で独島の韓国領有は国際的にも確定していたのだ。
1900年、大韓帝国は勅令41号で鬱陵島周辺の「石島」(独島)が同国の統治下にあるとした。
これに対し
明治政府は異見を出さなかった

他方、こうした歴史的・国際法的関係を逆転させ、日帝が独島を略奪し、朝鮮植民地支配の転機となったものこそ、1905年の閣議決定だったのだ。

1905年 歴史上初の帝国主義戦争だった日露戦争のただ中で独島を「日本領土」と閣議決定して島根県に編入した。独島を歴史的に略奪したのだ。
日帝は日露開戦と同時に、韓国に「日韓議定書」を強要し、事実上の「属国」とした。
1904年 8月「第1次日韓協約」、
1905年 11月「第2次日韓協約」(乙巳保護条約)、

日本政府は口を開けば「竹島」は歴史的にも国際法上も日本領であると主張しているが、1905年の「竹島」の島根県編入の時にも「当時他国に異論はなかった」とか、「韓国側は異議を差し狭なかった」ので国際法上、有効だと主張している。このことについては2つの側面@国際法上からA当時の両国の史的側面からきっちりと反論できる。
  まず、国際法上の観点からは、領域編入が国際法上で有効なものと認定されるには「領域取得において、先占の要件を具備しているか、にある」。先占の要件とは、@その地域が「無主の地域」でありA「領域取得の国家意思」と「その意思を対外的に公表」すべき問題B「その地域の実効的な占有」の問題があるが、日本政府はこの要件を具備していない。

 B 1905年とは、いかなる時期か
 「竹島」編入に当時の朝鮮政府は異議を唱えなかったという日本政府や政府寄りの研究者は、一人として当時の両国関係を詳しく析出しようとしない。 山ほどの古文献を引張り出して、独島が古来から日本の領土なるを博引旁証している人たちなのになぜなのか。それは、当時の両国関係を歴史的に直視すれば、日本の朝鮮侵略過程のなかでの独島領有であるからである。はっきり記憶して欲しい。「竹島」領有の閣議決定は1905年1月28日であり、島根県告示とやらは同年2月22日である。この時期はいかなる時期か。

 1年前の1904年2月10日に日本の対ロ宣戦布告があり、その2日前の2月8日、日本は大軍を仁川に上陸させている。この日本軍の圧倒的軍事圧力のもとで2月23日には「韓日議定書」が結ばれる。「議定書」は6ヵ条からなっているが、その第1条は、韓国政府は日本政府の「忠告を容れる事」とあり、第4条は、日本は「軍略上必要の地点を臨機収用する」とあり、日本はいつでも朝鮮の土地を奪えるようになっていた。そして第5条では、韓国(当時大韓帝国)は日本の承認なしに第三国と条約を結べないようにした。

    この第1条の「忠告を容れ」る件と、第5条で第三国との条約を制限したことは、実質上保護国化で、翌年11月の乙巳保護条約の「締結」を待たずして、その内実は達せられたと言える。紙数の関係上、詳説は避けるが、朝鮮は実質上保護国化され、加えて1904年8月22日、いわゆる「韓日新条約」(第1次韓日協約)を強制締結させられ、外交顧問として親日米人スティーブンスを傭聘させられることになる。この時期、大韓帝国の外交権は日本に完全に握られていたのである。こういう歴史的事実を認識したうえで、日本政府と日本政府寄り研究者は、「竹島」領有告示に異議を唱えなかったから国際法上、有効だったと言い張るつもりなのか。  

また、国際法上の「先占の要件」の関連ではいま一つ紹介したいことがある。
    「竹島」領有告示後の1906年3月、島根県の第3部長・神西由太郎は、隠岐島司・東文輔らを従えて独島視察を行うが、ついでに鬱陵島に寄り、「鬱陵衛門」の扁額のある政庁に入って、郡守・沈興沢と面会し、独島の島根県編入を告げた。沈郡守は「簡単、素朴、頗る太古の風あり」と評されている。この鬱陵島郡守・沈興沢が1906年に旧暦の3月5日付で政府に報告書を提出する。

  「本郡所属、独島」と始まって、独島が日本領土にされたという内容である。日本政府とその追随者は国際法上の「先占の要件」を満たしていると強弁するが、さきにものべたように「先占の要件」の@はその地域が「無主の地域」ということである。

   しかるに日本領有の事実を初めて聞いた鬱陵島郡守は「本郡所属」という明確な認識を持っていたのである。この沈郡守の一片の報告書だけで、日本側のいう「先占の要件」の3つの条件をすべて否定する力を持っているといえる。彼は報告の最後に「照亮されることを務望(実情を明らかにされることを望む)」としたが、大韓帝国の外交はすでに保護条約により韓国統監府が置かれ、伊藤博文が韓国統監となっていた。伊藤統監が、日本の「竹島」領有に異議を申し立てるであろうか。

1905年、明治政府は日露戦争のさなかに軍事施設建設を目的として、そして同時に韓国に対する植民地化政策の激化の只中で独島を強奪したのである。「米国はフィリピン、英国はインド、日本は朝鮮」を手に入れるとした日米英間の帝国主義的合意を背景に、

1904年2月、日本軍は日露戦争突入とともに仁川に上陸し首都漢城を制圧した。同月には日韓議定書調印を強要、5月には対韓施設綱領の閣議決定、9月には第一次日韓協約を結んだ。ロシア海軍が日本の輸送船を沈める状況の下、11月にはロシアにおいて「リアンクール島」と呼ばれていた独島にロシア海軍監視用望楼の建設が可能であると予備調査で確認。

1905年1月、明治政府が「リアンクール島」を「無主地」と決め付けてその領土編入を閣議決定し、「竹島」と命名した。その際、関係国であるはずの朝鮮との協議も、官報による公示もなかった。政府の訓令を受けた島根県が県告示40号で同島を「竹島」と命名し、隠岐島司の所管にすると公示した。
同年7月、同島に望楼が着工され8月から活動が始まった。つまり、日露戦争に勝つための軍事施設の建設を目的として独島の領土編入が秘密裏に強行されたのである。
1906年3月 「竹島」領有告示後、島根県の第3部長・神西由太郎は、隠岐島司・東文輔らを従えて独島視察を行うが、ついでに鬱陵島に寄り、「鬱陵衛門」の扁額のある政庁に入って、郡守・沈興沢と面会し、独島の島根県編入を告げた。沈郡守は「簡単、素朴、頗る太古の風あり」と評されている。この鬱陵島郡守・沈興沢が1906年に旧暦の3月5日付で政府に報告書を提出する。
  「本郡所属、独島」と始まって、独島が日本領土にされたという内容である。日本政府とその追随者は国際法上の「先占の要件」を満たしていると強弁するが、さきにものべたように「先占の要件」の@はその地域が「無主の地域」ということである。
しかるに日本領有の事実を初めて聞いた鬱陵島郡守は「本郡所属」という明確な認識を持っていたのである。この沈郡守の一片の報告書だけで、日本側のいう「先占の要件」の3つの条件をすべて否定する力を持っているといえる。彼は報告の最後に「照亮されることを務望(実情を明らかにされることを望む)」としたが、大韓帝国の外交はすでに保護条約により韓国統監府が置かれ、伊藤博文が韓国統監となっていた。伊藤統監が、日本の「竹島」領有に異議を申し立てるであろうか。
1907年 7月「第3次日韓協約」と、韓国の内政も外交もすべて奪っていき、
1910年 韓国併合で植民地化を完成した。まさに1905年の独島略奪こそ日帝の朝鮮植民地支配の起点であり、朝鮮人民にとって「屈辱の象徴」なのである。 
1946年 戦後においても以上のような歴史事実を受けて、連合国軍総司令部(GHQ)は、の二つの「覚書」で、「竹島」への日本の行政権を停止し、日本漁船の操業区域から「竹島」を除外している。
 このように独島=朝鮮領はあらゆる意味で明白だ。

そして同年4月28日、対日講和条約たるサンフランシスコ条約が発効するが、この条約の「第2章 領域」の項の第2条(a)は「日本国は、朝鮮の独島を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」となっていた。ここには独島の名は入っていない。

独島問題が問うものは何か  −歴史認識と領土問題は密接不離の関係− 琴 秉 洞(クム  ビョン  ドン) 朝鮮大学校講師・
1946年1月29日

第2次大戦の終結によって日本全土と朝鮮南半部は米国を主力とする連合国の占領下に置かれたが、連合国総司令部は1946年1月29日付で日本政府に対して覚書を発し、日本の行政領域の範囲を定めた。この時、朝鮮関連の島としては鬱陵島、独島、済州島などが日本の行政権外とされた。つまり、この時点で連合国総司令部は独島に日本の行政権は及ばない、としたのである。

 そのうえ同年6月、米国は日本漁船の活動可能領域を定めた「マッカーサ・ライン」を設定したが、この時も独島は日本の操業区域外に置かれた。この「マッカーサ・ライン」は1952年4月25日に廃止されるが、その3ヵ月前にこのラインを引きついだ形のいわゆる「李承晩ライン」(韓国による漁船立入禁止線)が設定される。

1948年6月

ところで米国は、早くから独島を空軍爆撃演習地に指定し、爆撃を実施していたが、米軍機の爆撃演習によって独島で漁業に従事していた南側漁民16人の死亡及び行方不明者と重軽傷者6人を出すという事件が起きた。この事件に発足間もない李承晩政権は抗議し、米第5空軍は陳謝した。これは事実上、独島の南当局の領有権を認めたものといえよう。

1952年春 米国は李承晩政権に独島を爆撃演習地から除外したと通告し、その後、日米合同委員会で独島を爆撃演習地から除外したと通告している。
1965年 そしてここで指摘しなければならない問題は、いわゆる「韓日条約」妥結の折、両全権間の交換公文によって、独島をめぐる紛争は外交的に「両国政府が合意する手続きに従い調停によって解決を図る」とされ、いわば棚上げにされて問題が先送りされたことである。
1977年 この「韓日条約」締結以前の交渉でも独島問題が大きく浮上した時、KCIA部長・金鐘泌(当時)が、独島が「韓日親善」に障害になるのなら、「爆破して失くしてしまおう」と言ったことも有名だが、日本首相佐藤栄作が、条約調印当日、「竹島の領有権を日本に渡さなければ条約に調印しない」(朝日新聞・77年2月11日付)と圧力をかけた。
日帝・小泉=海上保安庁の独島略奪策動を弾劾する 独島(=「竹島」)は朝鮮の領土だ

 測量船を待機させ屈服迫る

 日帝・小泉政権が朝鮮領・独島(トクト、「竹島」)に対する許しがたい軍事挑発に踏み込んだ。日帝・海上保安庁は、4月19日から22日にかけて、独島周辺でいわゆる排他的経済水域(EEZ)だと称して測量調査を計画し、強行しようとした。
 これは新たな領土略奪・朝鮮侵略の攻撃そのものである。帝国主義的領土略奪、国益主義・排外主義の攻撃として、日帝がついに踏み込んだ軍事挑発、戦争挑発としてわれわれは満腔(まんこう)の怒りをもって弾劾する。同時に、日韓労働者の国際連帯と共同闘争で、日帝の独島略奪と排外主義攻撃を粉砕し、米日帝の北朝鮮・中国侵略戦争を阻止するために闘うことを宣言する。

 4月19日、海上保安庁の測量船「明洋」と「海洋」が鳥取県の境港に入港、待機態勢に入る中、日帝・小泉政権は韓国側の反応次第では20日にも調査を始めるという強硬姿勢で韓国に譲歩を迫った。

 25日に韓国盧武鉉(ノムヒョン)大統領は「日本が独島に対する権利を主張することは韓国の完全な解放と独立を否定する行為」「物理的挑発には断固対応する」と表明。これは日帝の軍事行動にすさまじい怒りを噴出させる朝鮮人民の闘いによって押し出された発言だ。小泉首相の靖国神社参拝や「つくる会」教科書をめぐるアジア侵略戦争と植民地支配を肯定し、再び侵略戦争を構える日帝の軍事挑発に、昨年来の朝鮮人民の怒りが沸騰しているのだ。

 この朝鮮人民の怒りに麻生外相は「歴史問題とは関係ない。領有権の問題だ」(25日、参院外交防衛委)と居直り、小泉・安倍は「(韓国に)冷静な対応を望む」などと盗人たけだけしく言い放ったのだ。

 これが軍事挑発でなくてなんなのか! 韓国側の対応いかんで日本海に展開する海自の巡洋艦がいつでも急行するという一触即発の事態だった。この時、舞鶴沖では自衛隊の軍事演習中だったのだ。

 小泉政権と海上保安庁は今回、6月のドイツでの国際会議で韓国が独島周辺の日本名の海底地形を韓国名に変更する動きをみせていることを口実に、海洋調査を突如設定し、測量船2隻を境港に待機させる挙に出た。そしてこの圧力を背景に谷内外務次官が訪韓、国際会議で海底地名の変更提案を行わないことを韓国に約束させた。それを条件に日帝も調査を中止することで「合意」が成立した。

 日帝の今回の海洋調査の狙いは、歴史的にも国際法上も完全に朝鮮領であり、韓国が現に実効支配する独島を「日本固有の領土」と強弁し国際問題化して、新たに独島略奪策動を強めることにあったのだ。

 日韓国際連帯で略奪阻止を
 今回の独島周辺の自称EEZ海域での測量と独島略奪の策動は、米日帝の北朝鮮・中国侵略戦争、米軍再編の攻撃と一体であり、9条改憲、小泉靖国参拝、「つくる会」教科書などの攻撃と一体である。また中国領・釣魚台(ティアオユイタイ)略奪の策動とも連動している。

 日韓労働者の国際連帯と共同闘争でこの朝鮮侵略攻撃を粉砕しよう。

参考資料
朝鮮・社会科学院歴史研究所 備忘録で論述 独島は朝鮮固有の領土
独島問題が問うものは何か−歴史認識と領土問題は密接不離の関係− 琴秉洞(クムビョンドン)朝鮮大学校講師・歴史家
署名してくれた人たちのコメント
24日の国会前、座り込み
今日の参加は7人、カンパは3、783円でした。
マリーンズ・ゴー・ホームの実行委員
の方
菊池さん カンパ、ありがとうございます!
今日の差入れ みんなでいただきました
←辺野古へ行ったことがあります、
とカンパ!
となりでは、教育基本法改悪反対の
座り込みが行われています
たくさんの人が座っています
辺野古の速報は  ちゅら海をまもれ!沖縄・辺野古で座り込み中!

5月Hへ 5月Jへ
2006年「街」日誌へ










inserted by FC2 system