I am Jin
こんにちわ!はじめまして!
仁(Jin)
と申します。
1999年

 僕は、4年ほど前から心療内科(拒食症&躁鬱&ノイローゼ)にかかってるんだけど、病の世界を通じて確実に成長してきていることを実感しながら日々おくっておりやす。

 具体的に言うと、いま28になるんだけど、10代のころからずっとパンクロックをバンドでやってて、病気になってからはバンドが維持できなったのを契機に、フォークギターを練習して独力で表現できるようになりました。それ位僕にとっては、音楽をやっていくことが重要なのです。

 今は、ハネヤンの協力もあってチャンプルーで弾き語りをさせてもらっています。ぜひネットを通じて僕の音楽を聞きに来て下さい。
ヘタクソですけど、心の限り唄います!!
 それこそが 
ロック魂 だと思っています。 

 病やいろいろな事で生きつらさをかかえているみんな!僕といっしょにロックしよう!(なんちゃって)
チャンプルーにきて応援してね。仁でしたーーーーーーーーーーーー。


チャンプルーハネやん・・・
Part・1
沖縄料理店『チャンプルー街』にて

 それから4年後・・・もう限界のところにきていた。今日も飯が食えない。バナナをむりやりミルクで流し込む。頭の中はめちゃくちゃにまわってる。気がくるいそうな中、唯一摂取できるたばこをすう。食ってないから全てがこたえる。風呂でおぼれそうになる。何をみても聞いてもはなしても何も感じない。ただこれからの不安と絶望感ばかり。「もう無理だ!働けないし生活も乱れるばかり。何とかしてくれ!」 医者にそういうと保健所に行けと言う。わけもわからず保健婦にあらゆることを話した。するとその人は一段落ついたとみるや、ある施設を紹介するという。名前は「ほっとすぺーす関町」だと言った。え〜〜!あそこってそういう場所だったんだー!

 その時まで何年間も向かいの「ほっとすぺーす」が何なのかは知らずにいた。あのおじさんも、あそこではもう見かけない。そんなことを想いながら、「とんでもない!そこは僕んちの前です!」 保健婦は「作業所」というものを説明しすべての謎がとけた。そしていくつか紹介された結果、地元の精神病院「慈雲堂」のデイケアに通うことにした。昼飯がただで食えると言うのである。迷わず僕はそこを選んだ。

 しかし現実は、多感さのまだあった僕には耐えがたいものだった。保育園のようなところ・・・僕には耐えられなかった・・・それでもおおっぴらに薬の話や病のことを話せる関係も他になく僕はそこに行くしかなかった! そしてデイケアのメンバーにつれられてもう一度「街」にいくことになる・・・

 例の女性「のりこさん」は驚いた顔をしていた。そして僕はおそるおそる「おかしいな、おかしいな、と思ってるうちにこうなった」と言うようなことを、のり子さんに話した。その時には「何でそんなやせてんだ!情けない!」というようなことを言っていた。のりこさんはいず,なんともいえない優しい表情で接してくれるのりこさんがいた。 

 そして「チャンプルー」「関町ケアネットワーク」、そしてそれらの「拠点」としての「街」を本当の意味で紹介してもらい本格的に「街」や「チャンプルー」と関わっていくことになるのである。 <つづく>


「街」チャンプルーハネやん..
Part・2 激動の3年間

 「チャンプルー」にデイケアのメンバーと共にいくようになった。「当事者」と呼ばれる人たちがいろいろ客で来てる。少しずつ「この世界」に深入りしていくにつれ安心する反面それまでの社会とだんだんずれていっている自分を感じ怖くなって来た。

 バンドの世界も一般といわれる価値観とは離れたところで形成されている世界だがひとけた上の異世界に足をふみいれてしまったような気分である。ぼくはあがきにあがいた。無理矢理バンドをくんでみる,全然ダメ。すぐにつぶれた。車の免許を取れば少しは変わるかと思いのりこさんの郷里である栃木県に合宿で免許を取りにいけば,地元の暴走族にからまれ(うそをついて逃げた)同じ合宿免許を取りに来ているバリバリの20歳位のヤンキー達30人位に取り囲まれそのうちの一人と便所でけんかする羽目になった。大人数をまえにすっかりビビッテなすがまま。こん時ばかりは「我が人生最悪の時」とか感じた。

 たぶんそれまでの生き方が何かいい加減でうつになりどんよりとして毛をさかだてた猫のようになっていた僕はいやみなニヒリストの如きオーラを発していたのであろう。今ではその時にタイマンをはったハードコアパンクである横浜連合の頭という少年(それほどの剛の者とはかんじなかったので嘘かもしれない)にはまことに感謝している。人生とはおもしろい者である。うつ病の僕にとってはいささかキツイ試練ではあったが。

 それでもあがきはまだ続く。なんと僕は知り合いのコネでこともあろうに不動産会社に就職したのである。やくざと勘違いしてしまいそうなその会社の専務。ノルマというフリーターにはまったく関係のなかった価値観で動く世界・・・もうパンクやロックのことは半ばどうでもよくなっていた。うわべだけは・・・僕はそれこそ笑う練習を鏡でし,休日出勤皆勤賞,朝から夜中まで必死で働いてみた。どうやらそこでもパンクでありたいと願ったらしい。

 しかしそんなものは長続きするはずもない。いつしか会社帰りには近くの小指のないおじさんが経営しているリサイクルショップに行きギターなんかを引く始末。あまりもうかっていなそうな店だったがおじさんにごちそうしてもらった缶コーヒーは今でも忘れられない・・・それほど一人ぼっちだったのである。

 昔のことが思い出される。バンドはもうむりだ・・・そんな折り町田(会社はその辺にあった)の駅前で弾き語りをしている少年達に目がいくようになった。「これならどういう立場にいようと自分を表現できる!」と感じた。実はその前にも「チャンプルー」の夕食会で弾き語りはしたことがあった。結果はてんでダメ。それでも「おれはパンクのボーカルなんだから弾き語りなんて、かんけーねーや!」と無理矢理自分を言い聞かせたものである。そのフォークギターがその疲れた体と頭になんと輝かしく映ったことか!!

 ある日専務にチクチクとやられ、しまいには俺の家庭環境の悪口まで言い出しやがった。僕の悪魔の心がめらめらと燃えだした。その夜の帰りもらったばかりの携帯電話から104番をかけた。車を横付けした中でである。「すいません,東京練馬区の沖縄料理店で「チャンプルー」という店の電話番号をおねがいします」NTTの女性がかしこまりましたと番号を教えてくれる。そして僕はなつかしい「チャンプルー」に電話をかける。コールが何回かされると誰かがでる。

 「すいません,仁ですけどハネヤンいますか?」

 もはや「チャンプルー」で過去の人となっていた僕に電話の主は少し不思議そうである。やがてハネヤンにかわった。酒でいつものようにヘロヘロの様子である。

「はい ハネヤンです〜〜。あ〜〜そう〜〜。そんなとこいたらね〜〜,俺なんか即、窓際族ね。ん〜〜〜。でもやめないの。はいはいはい,チュッチュッチュ〜〜〜」

 俺は笑った。ほんとに久しぶりに腹の底から笑った。なんだか楽しくてしょうがなかった。そしてあくる日、専務のいやな視線に耐えてからお昼に大事な書類を銀行まで届けにゆき,町田の駅前の八百屋でバナナを買い、そこの親父と楽しくたわむれた後、会社をばっくれるのである! 

 海を見たあと一路「チャンプルー」へ向かって! 

 ほんとにしょうがないやつである。会社も困ったであろう。専務はちょっときびしくしすぎたとあやまっていたと母から聞いた。寂しさを感じさせていた僕を実はとても期待して厳しくしていたらしい。恩や迷惑はいまさらどうしようもないが,音楽をしっかりやって成長する事で恩をかえしたいと思っている。

  <つづく>

チャンプルーハネやん..
Part・3 パンク放浪記

「チャンプルー」に着いたのは夜9時位。車をおそるおそる路上駐車して店に向かった。店ではこれでもかという位疲れた僕を歓迎してくれた。おそらく僕が会社をドロップアウトして唯一受け入れてくれるところ。それがその時僕にとって「街」であり「チャンプルー」だった。

 いったい誰に会いたかったんだろう? ハネヤンとものり子さんとも今ほど深く接していた記憶はない。それでも会いたかった,行きたかった理由はたぶん常に僕のあからさまなあがきを受け止めつつもさまざまな疑問をなげかけ「パンクとしての僕」を大事にするよう悟してくれていたハネヤンにとても感謝の念が込み上げてきていたからだと思う。

  僕も試すだけ自分を試した実感があったしこの時、僕の心が一つ「リセット」された気がする。別に無心だった訳ではないのだが「これまでの価値観の延長線上に僕の未来がある訳ではない」というのが心の底から実感できた。ここに至るまでには書ききれない位の「あがき」と「挫折」を繰り返していたのだから「もういい。しばらくはホントに好きな事しかやるきはない!」という決定が僕の中で成された。好きな事しかやらないというのは"ホントニスキナコトシカヤンナイ"ということである。

 みなさんおわかりか? 自分の中の価値観も含めて環境,経済その他のもの含めてすべてが整ったとき"スキナコトダケ"ができる。その時の僕は忙しすぎたために貯金がかなりあったのである。これが後に僕自身の首をまわらなくさせる原因となる。

 僕はチャンプルーを手伝いだした。当分アルバイトをする気もない。というより「自分の力量」がわかりすぎるほど分かったため,当時26歳だった僕の年齢に要求されるような責任をともなう仕事は勤まらないということを自覚していた。ジャブ程度のアルバイトも想像してみなくはなかったが,それよりもここまで自分を苦しめて(?)きた社会常識というやつをけっこう呪っていた。しばらく好きなことしかやるまいというのは誠の気持ちだったのである。

 そしてTさんというミュージシャンに弟子いりしチャンプルーで「弾き語りをするパンク青年」としてついに登場するのである。この時現在の自分の原形がスタートすることになるのだが現実はそれほどご親切ではない。

  その当時の僕はいわば「歌を忘れたカナリヤ」状態。唄えと言われてもパンクのボーカルだった僕にとってはフォークで表現できる持ち歌なんてほとんど無い状態だったのである。たたきあげのミュージシャンTさんにはにはガキのいいわけの如きいいのがれはまったく通用しない。彼はまさにそのステージ度胸ひとすじでこの世をうろついてきたのである。

 「それじゃ仁,歌え!」。

チャンプルーの営業時間中にいつこの声がかかるのか気が気でなかった。そして,心持ちのさだまらないままに「へたなおんがく」としてのパンクを必死にがなった。

1997年6月
仁くん、チャンプルー・ライブ
I am Jin

 それではここでここに至るまでのあるきっかけがチャンプルーでおきたことをお話しておこう。その日はTさんと彼の仲間たちによるバンドでの恒例チャンプルーライブがある日だった。僕もプータロウなのをいいことにお気楽にほいほいそこへ出かけていった。渋〜〜い音楽が店に充満してる。お客さんで来ている。「街」のスタッフ富田さんのご家族もなごやかなムードに満足げだ。

 Tさんはそんな時、必ずかましてくる。「仁,俺らが休んでる間1曲でもいいから何かやれ! 俺の弟子ならどんな状況でもまず人前でプレイすることが大事だ。やれっ!」。こう来たもんだ。

 Tさん達の演奏もうつろに聞こえる。頭の中はグルグルしてる。こんな時、僕がただのミュージシャン志望だったら「まー気楽に場に合う曲でもやればいいや」となるだろう。

  だが俺は誰がなんと言おうとパンクスだ!

  俺の逃げは、ひいてはパンクへの冒涜になるのだ! 

 かまうことはない。パンク・ ・・あのへたでもいい、力強く叫べばいい、俺達は坂本龍一には逆立ちしたってなれないが、彼になんか負けないくらいロックを愛してる。

  俺らだってやれる! 

  やれるんだ! 

  だから「パンク」はすごく自由で優しいんだ! 

 という思い。そんな思いでいつもやって来たから、「僕は今グッドミュージックはできない! だけど病み上がりのパンクをかましてやるから聞けや!」そんな思いをかたわらに思いのたけ唄った。

 僕のパンク魂は燃え上がった。曲はルースターズの「モナ」(アイ・ニード・ユー・ベイビー)だ。高校時代にバンド仲間をくぎ付けにした名曲。僕の予想をはるかに越えてその唄はおおいにもりあがった。それこそ我を忘れて唄ったのだが"ホントニ燃エル"ということを僕は知っているので技術うんぬんをぬきにしても「まだまだだな」というのが正直な感想。でもあの日ああして、がなったことが僕自身の「パンクへの復活の日」であったことは間違い無い。火種の一つも燈されたと言ったところか。

 そして少しづつ、チャンプルーでの弾き語りも恒例化されて行く。だが,様々な気持ちのうきしずみ,精神的な葛藤・・・「いかに自分を表現しきるか」といった問いが自分の中でうごめき満足にプレイに集中できない。今思えば自意識過剰から来るこれも一つの「ノイローゼ」。そういうものは演奏にとても出る。僕の演奏もいい時にはいいがほとんど「シゴキ」に近い状態でただこなす毎日へとなだれ込んでいった。それでも意固地に何があろうと怒鳴る。ギターの音量をでかくしすぎて近所から苦情が・・・。だがハネヤン達は過激であろうとする僕の姿勢に寛大に接してくれた。

 しかし限界がきていた。確固たる信念の元に叫ぶのであれば胸のひとつも張れよう。だがそのときの僕は例の「パンクスピリット」もうやふやで,ただの屁のつっぱりとしてパンクを唄っていたにすぎない。パンク精神の抜け殻が見せかけのパンクを唄う。僕のもっとも軽蔑するパンクを冒涜するような唄うたいだ。僕自身もただパンクをやるのでは飽き足らない年齢に達していたのだろう。第一子供のようにもてるすべてで一つも唄えていない。どんな手段でもいいからきちんとやりなおそうと思った。ギャーギャーとわけのわからない唄を唄ったのを最後にしばらく弾き語りを休むことにした。1月半ほどはほんとに毎日唄った。だが周囲の応援をよそに空しさばかりがつのっていたのである。そしておおいなる決心をし,あくまでもパンク精神の元なんと夜間の音楽スクールに通いだすのである。年齢はもはや27。後にも先にもこれが最後の機会と感じながら僕は20歳頃の若者達が集う音楽スクールへと飛び込むのである。


チャンプルーハネやん
Part・3 チャンプルーでの盟友ヨッシー
 音楽スクールにはまるで僕とはちがう音楽を志す若者でいっぱいだった。そりゃーそうだ。「パンクをやりたい!」やつで音楽学校に通うやつなんて聞いたことがない。僕だって今までそうだった。だが聞いてほしい! そういった志をもちながら具体的な「音楽家」としての成長を拒否してマニア対象のバンドマンになっていく人のいかに多いことか! そして年齢にふさわしい表現を持てずに半ば「自然消滅」的に足を洗っていく人達のいかに多いことか!

 僕はいろいろな関わりの中でいやというほどそういった人達を見てきていたし,第一これからやっていく「弾き語り」は最新技術を駆使した音楽的処理などまったく介入できない「ナマ」の音楽である。いくらパンクパンクと言ったって一応音楽という手段をつかうことにはさけて通れない。それにまったく電気というものにたよらず身一つで表現していくフォークにこれからの僕のパンクを見出していたのだから。そうした理由で僕は音楽学校に通い」だすのである。 

 この発想に至るまでの最重要な人物の存在をここでそろそろ記しておきたい。彼の名前は「ヨッシー」。「チャンプルー」における音楽の歴史においての先駆者かつ最重要人物である。「街」の音楽の歴史は彼によって定着するに至ったといっても過言ではないだろう。彼こそは文字通り「身ひとつ」でパンクを表現しえた屈指のシンガーであったと声を大にして言いたい。

 そういう意味ではプロミュージシャンのTさんや、病をたてにとって登場している僕の比ではない。マニアックなパンクを唄う僕に対して彼の唄う歌は自作のものでありその印象は例えるならば「童謡」。問答無用の親しみやすさと誰でも口ずさめるメロディーと「詩」。ハネヤンをして「彼は詩人である」と言わしめた文字通りのポエットだ。

 ともするとすぐに自己完結的な表現にかたよってしまいがちの僕は、彼との共演の中で幾度となく苦々しい思いに陥ったものである。「なんで俺はこれほどまでにパンクであろうとしているのに,あいつの方がうけるんだ! 病とともに唄っているのは俺の方じゃないか!」。

 あさはかな自意識が常に唄の中に現れていた。勝負はやる前からついていたのである。いや,勝負という発想じたい彼の中には塵一つも無かったであろう。それ以来僕は「たたきつぶすパンク」から「すべてわかちあった上で完全燃焼するパンク」へと志を新たにするようになった。

2000年12月 名護・やんばる平和まつり

彼は現在「唄うこと」を休んでしまっていて、彼のポジションが言わば僕へとバトンタッチされているが,彼へのラブコールは未だやまない。僕にしても彼が「チャンプルー」でみんなと分かちえた「唄」をまだまだ唄えていないとの思いがある。依然、僕の「良きライバル」であり「チャンプルーでの盟友」であり、「パンクロッカー」としてもあの狂気的な叫びはギター一つもった僕にとっての「目標」だ。いずれ彼も再び僕と共に唄うときが来るだろうからその時は前とは違った意味で共にバチバチやりたいものである。お互いに燃え上がることを信条としているロッカーなのだから。

 そういうわけで僕は赤子のように一から音楽をやりなおしたく「忌まわしき音楽学校」へと足をはこぶのである。約一年制の夜間方式で個人レッスンを含め週に4回。そのころは「街」のメンバーとして昼間ははりきっていたから病を抱える身としてはなかなかにハードであった。それでも暴走族の一件や不動産会社での「地獄」に比べたらどうってことはない。いつしか「病という地獄にいるんだからちょっとぐらい落ちたところで一つ下の地獄に落ちるだけ。そう思えば、この世なんて天国みたいに楽なもんだ」と思うようになっていた。けっこう過激でしょ? 

 「なんたって俺達は"ロッカー"なのだから」とはハネヤンの弁。薬の助けも借りながら「街」のみんなやハネヤン,のり子さんの奮闘を想い浮かべなんとか卒業をいたしました。そして理論や技術の一端,「音楽という手段」としての唄い方などをそれなりに身につけ再び「チャンプルー」で唄わせてくれるようハネヤンにお願いしに行くのである。 

 時は1998年の11月頃。「チャンプルー」で唄わなくなってから約1年半たっており,僕の年も28となっていた。周囲はいやおうなしに「大人」としての振る舞いを要求してくるがかまうことはない。「街」の一員としてならどういう人生を送ろうとOKだ。こうして僕は「本当の意味でのパンク」を歩みだすのだが、その間に半年間「街」のメンバーとして在籍していたことを反省点を交えてつづろうと思う。


チャンプルーハネやん..
Part・4 青春の悶々

話は不動産会社をやめた頃,97年の5月にさかのぼる。僕がかなり貯金があって「しばらくはホントにスキナコトシカヤンナイ」と決意していたことは前に書いた。ともかくすったもんだの挙句ハネヤンがそれまで遠まわしにアドバイスしてくれた事や実際に「街」を立ち上げた動機などにふれ、心の底から「この人に関わりたい」というのがその時とてもしたい事だった。

 チャンプルーで弾き語りをやりつつそれでも昼間の時間が思うようにいきいきと過ごせないので,この際アルバイトではなく「街」という「作業所」のメンバーになれないものかとのり子さんにお願いしてみた。表現のしかたとして適切ではないかもしれないがその頃の「街」はいまのそれほど活気は無かったように思う。

 「街」も千変万化しているのだ。今こういったネット関係での来訪者や意識的に「街」を選んで来ているメンバーの存在などを含めて「街」全体が本当にエネルギッシュ克つ飛びぬけた空間となっている。それに比べてしまうとやや劣るかなという印象もしないでもないが,それでも当時から工賃なども含めて「オープンスペース街」という作業所は他の場所からしてみると飛びぬけてユニーク(あえてこう表現しておく)だった。

 自宅だったしそれまでの「成すべし」的な発想から離れたいという思いもあり,大好きな場所「街」で実際に働きたかったのだ。一日の工賃でそれなりに家族の援助とともにやっていけそうだとの確信もあった。そして5月の末頃、満を持してめでたく「街」のメンバーとなるのであった。 

 さて「街」に特別な思いをいだいて入っていくことを述べているわけだが、ここに至る契機としての初めての施設体験である「慈雲堂デイケア」での日々について語っておきたい。その年1996年,というのはそれまでの一般就労というものを一時「待った」して、ただのらりくらり真剣に自分の深いところを見つめていこうと決意していた。その当時で25歳。バンドマンとしてもひとくぎり,転換期の年齢であり実体としての「バンド」も当然すすめていて然るべき歳である。逆にいうと「この先もやってくのかそれともあきらめるか」という最初の選択に迫られる歳でもある。

 しかしその当時の僕は長いノイローゼの渦の中で、自分の周囲の人間関係をことごとくつぶしてしまっていて長いつきあいの心から安心してつきあえる仲間達からももはや追放されていた。理屈をなまじこねるのでさらに嫌われていく。いくら音楽への想いを盾にとったとしてもやはりそこはそこ,「人間関係」ベースである。そんなわけで唯一の生きる糧であったバンドの立ち上げも一時「待った」することにした。本当の志であったバンドへの想いもこの先どうしようとは考えないことにした。それはとてもとてもつらい決意ではあった。しかし真剣に「デイケア」での今後を考えリハビリ期間としてこの一年をおくってみようと思っていた。そんな想いでおそるおそるデイケアに通い出すわけだが,どうも様子が違う。 

 前もって触れておくと僕は入院経験というものがない。だから拒食症を主に抱えていた僕にとって深刻な躁鬱やまして分裂の人達などのことはまったく知るよしもなかった。デイケアのメンバーが僕にたずねる。「あなたの症状は幻覚?それとも幻聴?」。僕はいろいろごちゃごちゃ考えてしまって落ち着く暇がないというような事を言った。「あ〜〜妄想だ〜〜!!」彼女は言った。ああ妄想っていうんですかなどと答えたがよくわからない。とにかく分裂病というものの具体的な症状をデイケアでの友人に聞くにつれ信じがたい驚きにかられたものだった。そして「ここ」が実は全くリハビリのための施設などではどうやら「ない」ということも・・・。そして次第に保健所の労によってここに来たことも、どうやらそう言う意味では「ない」らしいということも・・・。

 僕は信じられないほど戸惑った。それはこうした「病」にみまわれた人の誰もが初めに絶望するように・・・。僕の心はもうあがくなんてもんじゃなかった。「死ぬかこのまま行くか?」という選択を迫られるように。どうにもならない思いは訳のわからない行動をとらせる。スポーツジムで反吐を吐くほどに鍛えまくるなんてのはかわいいもの。もう出会った精神世界の本を頼りに実に1日6〜8時間ほどきっかりと教えるとうり「ヨガ」の訓練をはじめた。

 ポーズの鍛錬をざっとこなすのに大体2時間。そして非常に意識的に「呼吸法」の鍛錬をこなすのに3時間ほど。脱カルマ法というのはやって慣れてくると冗談でもなんでもなく閉じた瞳をしばらくして開けるとグルグルに世界がまわってみえる。翌々あとになってみるとかなり体には悪そうな気がするので誰にもおすすめはしない。そして全てのメニューの最後には座禅をしながらヨガのなんかの言霊のひとつだとか言う言葉を大きく唱えるのである。なんと「オーーウーーームゥーーーー」と唱えると書いてある。時はまさしく「オウム事件」で世間が騒ぎに騒いでいた時。ほとんどすがる思いでなんとかこの苦しみから逃れられないかと必死に「オームーー」と唱える僕がいた。約2ケ月ほどつづけてどうやら「こつ」も分かってきていたが、あまりに空しいのと、あまりにも「ロック」で無いのと、あまりにもあぶない気がしたのでやめた。<つづく>


チャンプルーハネやん..
Part・4 はじめて病を受け入れた時 

デイケアの日々もなにがなんだかわからなくなってきた。「プログラム」というのも最初はリハビリと思い一心不乱にやったが、やがてほとんど参加しなくなった。

 近所の「ガスト」でメンバー達と一緒にフリードリンクだけでねばる。中にはちゃっかり何も注文せずに「お冷や」のコップでジュースを拝借する者も・・。「わかば」のたばこを吸っていたりで25歳ではいささか参る・・・。そして薬の話しでおおいにもりあがる!!。メンバー同士でのけんかざた・・・。ちょっと疲れはてていた。せめてもの自分の支えであるオートバイにのって海にいきたいと思った。どういうわけか人というのはなんかあると海に行きたがるのである。デイケアの終了ミーティングが終わるのが午後3時半。そのまま何回か鎌倉までいった。

 「もうどうにでもなれ!!」と言う思いで安定剤を飲まずに第3京浜に乗る!春の風がバイクにはまだ寒い。震えながら走る。それよりもなにも怖くて怖くてろくすっぽスピードが出せない!!。50キロ位でとろとろ走るがそれでも抱えきれないほどの「不安」が体中にまとわりついて大きな標示さえも見ることができない!!。どんどん暗くなってくるのがわかる。何も見えない気がしてくる。どちらにむかいどの車線を走るべきなのかも意識のなかでさだかでない。

 死ぬほどの思いでやっと鎌倉に着いたのは、もう海もよくみえない8時ほどだった。へとへとの気持ちの中で砂浜にへたりこむ。

   「日の沈む海さえも神様は見せてくんないのか・・・。

 しかたなく夜の鎌倉で座り込みまたヨガのまねごとをする。茫然と月をありありと眺める。せまってきそうな月に心で語りかけても何も返ってこない。ただこれまで見たどの月よりもはるかに馬鹿でかくリアルに月が見えたのはおぼえている。10時近くまでそうしたあとしみじみと海辺の方へ歩いてみた。バイクで50キロも出せなかったのが思いだされた。

  「オレハ モウ オワリ ナノカ・・・」

呟くとわけもわからず泣けてきた・・・。さめざめと泣く。

  「うっうっうっ・・・」とみっともなく嗚咽しながらとぼとぼと海の方へ近づく。やがて立ち止まってめそめそとさざなみの近くに立ち波をながめていた・・・。す〜〜ると・・・

 「ザ〜〜〜ッパ〜〜〜〜〜ン」と音をたてて高波が僕をおそった!!!!。涙ともども海水でずぶ濡れになってしまいなんだか無理やりと我に返らされた僕がいた!?!?。

 「〇×Ω!?ウキャ〜〜〜〜〜ッキャッキャッキャッ!!!!」
 「うぅ〜〜〜〜〜わああああははははは〜〜〜〜!?!?!?!?」。

    僕は笑い転げてしまった!!!

      笑った!! 笑った!!! 笑ったっ!!!

 波打ち際を飛び跳ねて猿のように駆けずりまわった!!!

 なんだか可笑しくてしょうがなかった。もう10年ぶりくらいに腹のそこから笑った気がした。やがて海にむかってジョロジョロ立小便をしてその海水でいけしゃあしゃあと安定剤をゴクゴク飲んだ!!!。何が起きるのかまったく予期できないこの世界がとてもいとおしく,懐かしく,そして素晴らしいものに感じられた!。

 いつしか思っていた・・・

 「生きてやるぞう〜〜〜!!!

 薬でも何でも飲んでやらー!!

 なんでもやっちゃらあ〜〜!!

 生きて生きて生きてうろついたるぞう〜〜〜!!!!!」
と坂本竜馬に扮する武田鉄也よろしく海にむかって胸を張って立っていた。そしてもううきうきしながら「安全運転で〜〜す」とばかりにとろとろと,安定剤の力も借りめでたく楽しく五反田経由で家に帰った。「なんでそんなに病気なのに堂々としてるんですか?」などと不思議そうに言われることが今の僕には多々ある。
 振り返って考えてみると,あの日・あの時、夜の鎌倉でびしょぬれになったことがまず思い出される。「はじめて病を受け入れた時」があのときだったのだと思う。それにしても今思い出してもあれは面白かった・・・。ほんと「生きてること」はまったく予期せぬことの連続で面白いんである。だからどんな不幸があろうとたいしてかまうことはない。また「なんか」に転がってくもんだと思う。

   


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