I am Jin |
こんにちわ!はじめまして! 仁(Jin)と申します。 |
1999年 |
僕は、4年ほど前から心療内科(拒食症&躁鬱&ノイローゼ)にかかってるんだけど、病の世界を通じて確実に成長してきていることを実感しながら日々おくっておりやす。 具体的に言うと、いま28になるんだけど、10代のころからずっとパンクロックをバンドでやってて、病気になってからはバンドが維持できなったのを契機に、フォークギターを練習して独力で表現できるようになりました。それ位僕にとっては、音楽をやっていくことが重要なのです。 今は、ハネヤンの協力もあってチャンプルーで弾き語りをさせてもらっています。ぜひネットを通じて僕の音楽を聞きに来て下さい。 病やいろいろな事で生きつらさをかかえているみんな!僕といっしょにロックしよう!(なんちゃって) |
僕と街とチャンプルーとハネやん・・・ |
Part・1 |
沖縄料理店『チャンプルー街』にて |
それから4年後・・・もう限界のところにきていた。今日も飯が食えない。バナナをむりやりミルクで流し込む。頭の中はめちゃくちゃにまわってる。気がくるいそうな中、唯一摂取できるたばこをすう。食ってないから全てがこたえる。風呂でおぼれそうになる。何をみても聞いてもはなしても何も感じない。ただこれからの不安と絶望感ばかり。「もう無理だ!働けないし生活も乱れるばかり。何とかしてくれ!」 医者にそういうと保健所に行けと言う。わけもわからず保健婦にあらゆることを話した。するとその人は一段落ついたとみるや、ある施設を紹介するという。名前は「ほっとすぺーす関町」だと言った。え〜〜!あそこってそういう場所だったんだー! しかし現実は、多感さのまだあった僕には耐えがたいものだった。保育園のようなところ・・・僕には耐えられなかった・・・それでもおおっぴらに薬の話や病のことを話せる関係も他になく僕はそこに行くしかなかった! そしてデイケアのメンバーにつれられてもう一度「街」にいくことになる・・・ 例の女性「のりこさん」は驚いた顔をしていた。そして僕はおそるおそる「おかしいな、おかしいな、と思ってるうちにこうなった」と言うようなことを、のり子さんに話した。その時には「何でそんなやせてんだ!情けない!」というようなことを言っていた。のりこさんはいず,なんともいえない優しい表情で接してくれるのりこさんがいた。 そして「チャンプルー」や「関町ケアネットワーク」、そしてそれらの「拠点」としての「街」を本当の意味で紹介してもらい本格的に「街」や「チャンプルー」と関わっていくことになるのである。 <つづく> |
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Part・2 激動の3年間 |
「チャンプルー」にデイケアのメンバーと共にいくようになった。「当事者」と呼ばれる人たちがいろいろ客で来てる。少しずつ「この世界」に深入りしていくにつれ安心する反面それまでの社会とだんだんずれていっている自分を感じ怖くなって来た。 バンドの世界も一般といわれる価値観とは離れたところで形成されている世界だがひとけた上の異世界に足をふみいれてしまったような気分である。ぼくはあがきにあがいた。無理矢理バンドをくんでみる,全然ダメ。すぐにつぶれた。車の免許を取れば少しは変わるかと思いのりこさんの郷里である栃木県に合宿で免許を取りにいけば,地元の暴走族にからまれ(うそをついて逃げた)同じ合宿免許を取りに来ているバリバリの20歳位のヤンキー達30人位に取り囲まれそのうちの一人と便所でけんかする羽目になった。大人数をまえにすっかりビビッテなすがまま。こん時ばかりは「我が人生最悪の時」とか感じた。 たぶんそれまでの生き方が何かいい加減でうつになりどんよりとして毛をさかだてた猫のようになっていた僕はいやみなニヒリストの如きオーラを発していたのであろう。今ではその時にタイマンをはったハードコアパンクである横浜連合の頭という少年(それほどの剛の者とはかんじなかったので嘘かもしれない)にはまことに感謝している。人生とはおもしろい者である。うつ病の僕にとってはいささかキツイ試練ではあったが。 それでもあがきはまだ続く。なんと僕は知り合いのコネでこともあろうに不動産会社に就職したのである。やくざと勘違いしてしまいそうなその会社の専務。ノルマというフリーターにはまったく関係のなかった価値観で動く世界・・・もうパンクやロックのことは半ばどうでもよくなっていた。うわべだけは・・・僕はそれこそ笑う練習を鏡でし,休日出勤皆勤賞,朝から夜中まで必死で働いてみた。どうやらそこでもパンクでありたいと願ったらしい。 しかしそんなものは長続きするはずもない。いつしか会社帰りには近くの小指のないおじさんが経営しているリサイクルショップに行きギターなんかを引く始末。あまりもうかっていなそうな店だったがおじさんにごちそうしてもらった缶コーヒーは今でも忘れられない・・・それほど一人ぼっちだったのである。 昔のことが思い出される。バンドはもうむりだ・・・そんな折り町田(会社はその辺にあった)の駅前で弾き語りをしている少年達に目がいくようになった。「これならどういう立場にいようと自分を表現できる!」と感じた。実はその前にも「チャンプルー」の夕食会で弾き語りはしたことがあった。結果はてんでダメ。それでも「おれはパンクのボーカルなんだから弾き語りなんて、かんけーねーや!」と無理矢理自分を言い聞かせたものである。そのフォークギターがその疲れた体と頭になんと輝かしく映ったことか!! ある日専務にチクチクとやられ、しまいには俺の家庭環境の悪口まで言い出しやがった。僕の悪魔の心がめらめらと燃えだした。その夜の帰りもらったばかりの携帯電話から104番をかけた。車を横付けした中でである。「すいません,東京練馬区の沖縄料理店で「チャンプルー」という店の電話番号をおねがいします」NTTの女性がかしこまりましたと番号を教えてくれる。そして僕はなつかしい「チャンプルー」に電話をかける。コールが何回かされると誰かがでる。 「すいません,仁ですけどハネヤンいますか?」 もはや「チャンプルー」で過去の人となっていた僕に電話の主は少し不思議そうである。やがてハネヤンにかわった。酒でいつものようにヘロヘロの様子である。 「はい ハネヤンです〜〜。あ〜〜そう〜〜。そんなとこいたらね〜〜,俺なんか即、窓際族ね。ん〜〜〜。でもやめないの。はいはいはい,チュッチュッチュ〜〜〜」 俺は笑った。ほんとに久しぶりに腹の底から笑った。なんだか楽しくてしょうがなかった。そしてあくる日、専務のいやな視線に耐えてからお昼に大事な書類を銀行まで届けにゆき,町田の駅前の八百屋でバナナを買い、そこの親父と楽しくたわむれた後、会社をばっくれるのである! 海を見たあと一路「チャンプルー」へ向かって! ほんとにしょうがないやつである。会社も困ったであろう。専務はちょっときびしくしすぎたとあやまっていたと母から聞いた。寂しさを感じさせていた僕を実はとても期待して厳しくしていたらしい。恩や迷惑はいまさらどうしようもないが,音楽をしっかりやって成長する事で恩をかえしたいと思っている。 |
僕と街とチャンプルーとハネやん... | ||
Part・3 パンク放浪記 | ||
「チャンプルー」に着いたのは夜9時位。車をおそるおそる路上駐車して店に向かった。店ではこれでもかという位疲れた僕を歓迎してくれた。おそらく僕が会社をドロップアウトして唯一受け入れてくれるところ。それがその時僕にとって「街」であり「チャンプルー」だった。 いったい誰に会いたかったんだろう? ハネヤンとものり子さんとも今ほど深く接していた記憶はない。それでも会いたかった,行きたかった理由はたぶん常に僕のあからさまなあがきを受け止めつつもさまざまな疑問をなげかけ「パンクとしての僕」を大事にするよう悟してくれていたハネヤンにとても感謝の念が込み上げてきていたからだと思う。 僕も試すだけ自分を試した実感があったしこの時、僕の心が一つ「リセット」された気がする。別に無心だった訳ではないのだが「これまでの価値観の延長線上に僕の未来がある訳ではない」というのが心の底から実感できた。ここに至るまでには書ききれない位の「あがき」と「挫折」を繰り返していたのだから「もういい。しばらくはホントに好きな事しかやるきはない!」という決定が僕の中で成された。好きな事しかやらないというのは"ホントニスキナコトシカヤンナイ"ということである。 みなさんおわかりか? 自分の中の価値観も含めて環境,経済その他のもの含めてすべてが整ったとき"スキナコトダケ"ができる。その時の僕は忙しすぎたために貯金がかなりあったのである。これが後に僕自身の首をまわらなくさせる原因となる。 僕はチャンプルーを手伝いだした。当分アルバイトをする気もない。というより「自分の力量」がわかりすぎるほど分かったため,当時26歳だった僕の年齢に要求されるような責任をともなう仕事は勤まらないということを自覚していた。ジャブ程度のアルバイトも想像してみなくはなかったが,それよりもここまで自分を苦しめて(?)きた社会常識というやつをけっこう呪っていた。しばらく好きなことしかやるまいというのは誠の気持ちだったのである。 そしてTさんというミュージシャンに弟子いりしチャンプルーで「弾き語りをするパンク青年」としてついに登場するのである。この時現在の自分の原形がスタートすることになるのだが現実はそれほどご親切ではない。 その当時の僕はいわば「歌を忘れたカナリヤ」状態。唄えと言われてもパンクのボーカルだった僕にとってはフォークで表現できる持ち歌なんてほとんど無い状態だったのである。たたきあげのミュージシャンTさんにはにはガキのいいわけの如きいいのがれはまったく通用しない。彼はまさにそのステージ度胸ひとすじでこの世をうろついてきたのである。 「それじゃ仁,歌え!」。 チャンプルーの営業時間中にいつこの声がかかるのか気が気でなかった。そして,心持ちのさだまらないままに「へたなおんがく」としてのパンクを必死にがなった。 |
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それではここでここに至るまでのあるきっかけがチャンプルーでおきたことをお話しておこう。その日はTさんと彼の仲間たちによるバンドでの恒例チャンプルーライブがある日だった。僕もプータロウなのをいいことにお気楽にほいほいそこへ出かけていった。渋〜〜い音楽が店に充満してる。お客さんで来ている。「街」のスタッフ富田さんのご家族もなごやかなムードに満足げだ。 Tさんはそんな時、必ずかましてくる。「仁,俺らが休んでる間1曲でもいいから何かやれ! 俺の弟子ならどんな状況でもまず人前でプレイすることが大事だ。やれっ!」。こう来たもんだ。 Tさん達の演奏もうつろに聞こえる。頭の中はグルグルしてる。こんな時、僕がただのミュージシャン志望だったら「まー気楽に場に合う曲でもやればいいや」となるだろう。 だが俺は誰がなんと言おうとパンクスだ! 俺の逃げは、ひいてはパンクへの冒涜になるのだ! かまうことはない。パンク・ ・・あのへたでもいい、力強く叫べばいい、俺達は坂本龍一には逆立ちしたってなれないが、彼になんか負けないくらいロックを愛してる。 俺らだってやれる! やれるんだ! だから「パンク」はすごく自由で優しいんだ! という思い。そんな思いでいつもやって来たから、「僕は今グッドミュージックはできない! だけど病み上がりのパンクをかましてやるから聞けや!」そんな思いをかたわらに思いのたけ唄った。 僕のパンク魂は燃え上がった。曲はルースターズの「モナ」(アイ・ニード・ユー・ベイビー)だ。高校時代にバンド仲間をくぎ付けにした名曲。僕の予想をはるかに越えてその唄はおおいにもりあがった。それこそ我を忘れて唄ったのだが"ホントニ燃エル"ということを僕は知っているので技術うんぬんをぬきにしても「まだまだだな」というのが正直な感想。でもあの日ああして、がなったことが僕自身の「パンクへの復活の日」であったことは間違い無い。火種の一つも燈されたと言ったところか。 そして少しづつ、チャンプルーでの弾き語りも恒例化されて行く。だが,様々な気持ちのうきしずみ,精神的な葛藤・・・「いかに自分を表現しきるか」といった問いが自分の中でうごめき満足にプレイに集中できない。今思えば自意識過剰から来るこれも一つの「ノイローゼ」。そういうものは演奏にとても出る。僕の演奏もいい時にはいいがほとんど「シゴキ」に近い状態でただこなす毎日へとなだれ込んでいった。それでも意固地に何があろうと怒鳴る。ギターの音量をでかくしすぎて近所から苦情が・・・。だがハネヤン達は過激であろうとする僕の姿勢に寛大に接してくれた。 しかし限界がきていた。確固たる信念の元に叫ぶのであれば胸のひとつも張れよう。だがそのときの僕は例の「パンクスピリット」もうやふやで,ただの屁のつっぱりとしてパンクを唄っていたにすぎない。パンク精神の抜け殻が見せかけのパンクを唄う。僕のもっとも軽蔑するパンクを冒涜するような唄うたいだ。僕自身もただパンクをやるのでは飽き足らない年齢に達していたのだろう。第一子供のようにもてるすべてで一つも唄えていない。どんな手段でもいいからきちんとやりなおそうと思った。ギャーギャーとわけのわからない唄を唄ったのを最後にしばらく弾き語りを休むことにした。1月半ほどはほんとに毎日唄った。だが周囲の応援をよそに空しさばかりがつのっていたのである。そしておおいなる決心をし,あくまでもパンク精神の元なんと夜間の音楽スクールに通いだすのである。年齢はもはや27。後にも先にもこれが最後の機会と感じながら僕は20歳頃の若者達が集う音楽スクールへと飛び込むのである。 |
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